加藤シゲアキ「なれのはて」感想 ~エンターテインメントの力を信じて~

※ストーリーネタバレ無し。引用有り。本文の意見に渡る部分は全て私見であることをはじめに申し添えておきます。紹介文ではなく、ただの感想文です。

 

今こそである。

やはりこの人はそういう運命を引きつける力があるのかもしれないとさえ思う。

『なれのはて』が偶然にも「今」発売されること、逆に運が強すぎると思う。この本がすでに潜在的に持つ深い意義を、NEWSの加藤シゲアキが今の時代に刊行したことが、その意義を究極に意義たらしめている。全ての人にどうにか知って欲しい。今こそなのである。一矢報いるわけではなくて、今こそ実感を伴って時代を学び「正す」ことができる。

 

 

誰しもが、初めから人ならざるものを秘めている
(「なれのはて」小説現代23.10号251頁)

 

「戦争は絶対にいけない」なんて言えているうちはよいのだ。どうにもならない怒りや憎しみや思惑の果てにそれは姿を顕す。人の道を外れていようと自らの道理が彼を突き進ませる。

それが人間という動物なのだろうと感じさせられた。「人ならざる」それを秘めているのが人というものなら、一体どうしたらそれを止められるのだ?───

 

戦争って人が起こすんですけど、人を超えていくんですよね。人格を持っていくというか、もはや動き出したら止まらなくなるようなところがきっとある。
加藤シゲアキ 小説現代23.10号293頁)

 

 たった1日が大勢の人間の命運を分けた。その運命に飲み込まれた登場人物たちに「人ならざるもの」が顕れる。
 367-368頁については特に、「何か見えざるものに書かされていた」という感覚はたしかにそうかもしれない。『なれのはて』は、徹底した調査のうえで構えられた舞台設定のなかで、そしていつもながらの端的な表現で、明暗、時刻、音、温度、湿度、匂いや纏わりつく空気までを完全に想起させる力は凄まじいものがあり、その説得力のもとで肖像の細部までそれぞれの人の理論・想いとその背景が書き込まれている。「人ならざるもの」を強制的に引き出す場面として映像が鮮明さに畏怖を覚えた。正気を失っていながら正気でいるような、人間の激情が凄まじく(興奮状態のように感じて)震えた箇所があった。戦争の惨状を誠実に描くために、それを起こさせる“人ならざるもの”への変貌を必死に描いたのだろうと思う。それはどこでも生まれ、連鎖しうるものだと納得する。私たちは選択するのか選択させられているのか、時代に呑まれる人間が描かれている。

 (しかし利権のために時にデマを吹聴してまで意図的に大衆を煽るプロパガンダ偏向報道は、一体何なのだろう。)

 1枚の政治的なビラに高揚して戦地に向かい、帰らぬ人となった青年がいた。1つの(謂れなき)報道で、勝手な想像による噂で、本来の人生を潰された人がいる。

 人の意思が別の意図のもとに操作され歪曲され、その結果起こらなくてよかった被害が生じる。自分が責められない側にいるのは楽だから、考えるのは疲れるから、上辺の知識の(あるいは情報制限された)大衆が従えば一気に激流をつくり、議論が封じられ選択が無くなり、やがて誰も責任を持たないまま流れだけが止められなくなる。“別の意図”はその責任を追わない。名も無きそれ達が人の心を食い荒らし、本当に死に向わせる。

 

もうやらないなんてない、そんな状況(例えば戦争のような)に人を追い込むものが、無責任にも欲による人為的な「時代の流れ」というやつかもしれない。二極化して語れるほど世界は単純なものではない。人間はそもそも全員違うはずで、視点も理論も全部違って、完全に理解などし合えないことが当然で、だからこそ想像力が必要なのに。そのことを理解出来る力が人にはあるはずなのに、振りかざされた正義で陥れられた者達は本当にその謂われがあっただろうか。しかし人の力はそういうことをしている。歴史が何度証明しても繰り返してしまう。だから「今こそ」とも思う。

そんな世界でも、選択の余地がなくても、それでも選択する人間の姿の凄まじさが描かれていた。

(加藤さんの処女作『ピンクとグレー』では主人公の姉の『やらないなんてないから』という言葉が主人公を呪縛し続けるが、やはり加藤シゲアキさんは「ちゃんと死ぬ」ということがひとつの人生のテーマとして常に頭のどこかにあるように思う。
ゆえに、加藤さんが今書かれた節目のような作品として「なれのはて」というのは、必然だったように思う。)

 

 

そして同時に著者は、加藤シゲアキは、エンターテインメントの力を知っている。

この物語のきっかけは、不思議な「1枚の絵」である。

 

冷めない熱が、これらの絵には込められている。

そして人にはそれらを読み取る力がある。思いを馳せる力がある。

(「なれのはて」小説現代23.10号271頁)

 

この力もまた、人にはあることを知っている。たとえ背景知識がなくても、時空を超えて、人はたったひとつの作品のみから本物の熱を読み取ることが出来る。

 守谷・吾妻たちは、絵について調査を進める中で伝え聞いた噂や、証言者自身が持つ範囲内での記憶(主観込)を断片的に「切り抜き」を少しずつ集め、事情や人物像に対して、それこそスキャンダル要素も含んだ仮説が立っていく。しかし、ある程度仮説を立てたところで僅かに生じた違和感を彼らは無視しなかった。

 “私がこの絵から感じたのはそういうことではなかった”“この絵から感じるものはもっと違う”。本物へのブレない確信が、この絵が生まれた真実に辿り着いた。やはり、そこには確かな熱があった。間違いなく存在した証があった。人は心で対話し、真意を見定めることができる。

 

「生きるために描く。

それが、誰かの生きる意味になる。」

 

  読み終えてみると、『なれのはて』のこのキャッチコピーが、震えるほど的確であることが分かるのだ。
加藤シゲアキ さんが知っている、そしてその腕をもってこの本で問うている“力”そのものを概念的に端的に示している。総じて、この本が何について書いたものかと言ったらエンターテインメントの力だと思うのである。人を動かすもの。生きるためにやらねばならないもの、生きた人の熱を残せるもの、証。その熱を伝え、それを読み取った人の生きる意味となる力を秘めるもの。

  そしてそれを書いた本書もまたエンターテインメントである。

  加藤さんは言った。戦争の時代を扱うにあたり、手法として史実の説明ではなく視点人物をおいてフィクションに仕上げた方が実際に何が起こったのかを伝えやすいという結論には至るものの、生々しい記憶が残る悲しみの歴史をどこまでフィクションとして書くことが許されるのかについて強く悩んだと。悩んで、悩んだ末、「記録するという思いに駆られて書く」という現段階での結論を得たと。年々消えゆく実体験した者の記憶や証言を、フィクションの中に記録できるのならば、エンタメとして書いてもいいのではないか、その場にいた誰にでも可能性があった様子を誠実に描けばいいのではないか。

物語だからこそ、決して二極化できない問いについて心に届けられるものがあるはずだ。

これを読んだ人が何かの熱を感じる、あるいは考えるきっかけになれば。自分は物語の力を信じるしかない。そして、自分がやった道は、きっと間違っていなかったと現時点では思えていると。

   まさにエンターテインメントの力であろう。この二重構造が実に痺れるのだ。

 

   たった一つの作品に、何か分からないけど衝撃を受けて世界が違って見えてくる、確信がうまれるという、そんな吾妻が言うような感覚、そのエネルギーを発端に物語は動いている。これは実際に私も覚えがある。私は間違いなく同じ体験を知っている。誰がなんと言おうとも、あの時の自らの確信に嘘はつけない、そう思う体験だ。その気概で初めて、そしておそらく人生で唯一の「心が動く」という強烈な“痛み”を感じた瞬間、体が熱くなって、全部が変わってゆく。吾妻と同じだった。こんなことは後にも先にもないとあの時点で確信していたかもしれない。この瞬間に全身全霊をかけている、たぶん造り手は人生全体の規模のものをかけて生きようとしている。

この熱をみすみす忘れてたまるかと、ノートの端に「生まれた日から今日までの僕が見てる」と、その曲の歌詞を書き残した。

  urnotalone.hateblo.jp

 

エンターテインメントには、本当にそういう力があった。この目で見て感銘を受けた事実を、否定することはできない。吾妻にとっての“イサムイノマタの絵”は、私にとって「NEWS」という人たちが歌う「U R not alone」だった。話が逸れる度に「私があの時感じたものはもっと違った」と否定する吾妻にとても感情移入した。

 作品の熱は、作り手の生きた証である。だから必ず伝わる。

人が人生を投じたものは、時空を超えてでも必ず誰かの(あるいは自らにも)支えとなる。まだこの世界を生きる価値がなくちゃいけない、誰かの生きる意味がなくちゃいけない。

 

2024年1月のラジオで、加藤さんは言った。

 

ガザ・パレスチナ戦争で図書館が焼かれた。なぜ書物が焼かれたのかといったら、書物が怖いということだ。プロパガンダには絵や映画が使われる。戦意高揚が絵や物語なのかといったら、それくらい戦争にとっては文化が怖いということだ。ということは、文化の力は戦争に匹敵する。文化を大切にするということは戦争と戦える方法だと思った。まだ文化の力を信じていいんだなと思う

(2024.1.1  AuDeeプレミアム   太田光×加藤シゲアキ 「笑って、なれのはて」より要約)

 

やはりそうだ。加藤さんが、あらゆるものを投じたこの本を総じて伝えたのはエンタメの力だ。

 加藤シゲアキは、エンターテインメントの力を知っている。そして、その責任の一端を担っている。だから最後は溢れるように書いたのだと思う。

   この世界に、まだ絶望しないでいてくれて良かった。

   小説現代の巻頭に書かれた「どこまで行ってもエンターテインメント」という文言を思い出す。加藤さんが“本当に書きたいもの”を書いた、その作品がこの『なれのはて』だということ、そして何度も自己批判的に自問自答し、『今』世に放ったことに敬意を払いたい。

エンターテインメントの最前線で生きることを選んだ彼が、まさに今、自らの人生であり武器であるそれをもって、それが秘める、誰かの生きる意味となれるほどの人の力を問うている。おそらくこの国で最も人衆の欲に晒される立場でありながら、読者を信じ、届くと信じ、彼の信じる、彼の生き方であるエンターテインメントを賭して、きっともっと深く、人間の心を知りたがっているのだ。

 

 

 

 

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〘参考〙

「自分は、それを作る側として今選択したという事は、その責任、物語を作る責任を持って与える影響力を今一度自覚して、今後も作家生活を続けていきたい」(SORASHIGEBOOK 23.8.16)

 

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