「正す」ことについて

人の辛さや悲しみが、あまりにラフに扱われすぎではないか。第三者が日頃のネタとして、あるいは憂さ晴らしとして人の苦しみを娯楽にしている風潮がある。何となくその危機感はあった。

 

予想はしていたけれど、よもやそんなことはしないだろうな?と思っていたことを本当にやる奴がいて恐ろしく思っている。もう十分に「迫害」といえる数々の不条理、問題の最中でありながら「改名」をネタにした芸人、流行語大賞候補にもかなり危機感がある。

人の苦しみや犯罪にまつわることまで娯楽にする。もはや人を殺すことを娯楽にするレベルにきている。

 

私は最近、ことあるごとに小説現代加藤シゲアキさんのインタビュー、講談社のwebのインタビュー、そして『なれのはて』を読んでいる。下劣な声に煽られ歪みそうになる自分を「正す」ためである。いや『なれのはて』は単純にエンターテインメントとしてその完成度の高さでグイグイ読んでしまうのだが、そうではないとき、自分が歪みそうなときにも読んでいる。今この作品を読めてよかったと思う。

 

現代の危険性について加藤さんがわかりやすく例示してくれたのが小説現代285頁の「障碍」の話。

最近は様々な症例について、以前よりもはるかにラフに情報が流れてくるようになりました。その反動が『あいつ、ADHDじゃない』みたいなことを冗談っぽく言う人も見かけます。ちょっと注意が足りなくて失敗したことなどを素人診断でリアルな診断名で語るというのは、僕には理解できないんですよ。そんなのジョークにもなってないよって思う。

これは本当に分かりやすい例で、つまり単語のその先にいる当事者のことなど微塵も考えず、ただ言ってみて面白がっているだけ。「面白そうな単語」を言っているだけ。その扱い方で不快に思う人がいるかどうかなんて考えないし、関係ないんだろう。別に正義も論理もない。でも、それってどうなんだろう。

大竹まことのラジオで事務所改名について加藤さんは、

「変えざるをえないだろうと思っていた。その名を聞いて今も苦しんでいる人がいるので事務所の名を変えたのに、マスコミは変わらず旧事務所名を言っている。僕らの思いがちゃんと伝わっていない」

と言っていた。変われ変えろと言うわりに、自分らは変わらない。名前のことさえ、何を見据えてどう改めていくべきか考えてなどいなかった。本当に、正義ごっこの快感で面白がっているだけに成り果ててしまった。挙げ句の流行語大賞候補である。本質は?「正す」作業は?人間の倫理観は何処へ消えた。

 

 

悲しみの歴史をどう扱うかということについて。

小説現代に深く語られている。

加藤さんは周りの歴史小説家に、「時代小説は、史実に全く新しい視点を持った登場人物を出したり、独自解釈を組み込むことで面白さが生まれる」ということを聞き、それは「史実の二次創作」ではなく、思った以上に小説は自由なのだと知る。だが悩み続ける。

史実に架空の人物を投げ込み、進行形でフィクションに仕上げるということをしようとしている。
多くの人が抱えた悲しみの歴史をそのように扱うことがどこまで許されるか。その理由が『小説は自由だから』では甘い。加藤さんは何度も自問自答する。強く悩み悩んで、悩んだ末、「記録するという思いに駆られて書く」という現段階での結論を得る。年々消えゆく実体験した者の記憶や証言を、フィクションの中に記録できるのならば、エンタメとして書いてもいいのではないか、その場にいた誰にでも可能性があった様子を誠実に描けばいいのではないか。そしてノンフィクションではない物語だからこそ、決して二極化できない問いについて心に届けられるものがあるはずだと。

webインタビューには小説にする意義についてこう書かれている。

戦争を記した優れたノンフィクションもたくさんあるのに、なぜ小説という形で僕がやる必要があるのか。ノンフィクションを読めばいいじゃん、となると思うけれど、でもそれだとたぶん若い人には届かないし、これが全部、戦争の資料だったら読めない人もいると思う。物語にすることで人の心により深く入れるというのは、僕自身が経験してきているので、すごく難しいけれど、そこに目を背けずに挑戦する。挑戦するからには真摯に向き合わなければならないので、資料を読んで、史実を都合よく解釈しないという、冷静な距離感を持つ。一番難しいところではありましたが、史実を利用したりせず、必然性があるように、有機的に書くことを心掛けたつもりです。

加藤シゲアキが描いた“戦争”「広島に生まれた僕が、秋田の“終戦前夜の空襲”を知りました」(小暮 聡子) | FRaU

 

本来、戦争や犯罪を扱うなら、ここまで考えなければいけないのだ。人生をすべて投じた上での葛藤がなければおかしい。ここまで考えてはじめて伝えられるであろうに。

 

それから、自身も律せねばと改めて思ったのが「正しさ」に関する記述。

正しさが矛というより、正しさを信じ込んでいる人のほうが危ないと思っています。僕は常に疑っています、自分がやっていることが間違っているかもしれないって。もちろんなるべくないように配慮はするけれど、この小説が誰かを傷つけてしまう可能性があるんじゃないかとも、僕は思っている。この小説を書きながらも疑いながら生きているけれど、正しいと思いこむ方が一番危ないですよね。それは本来、グレーでもなくて、白と黒が混ざり合って渾然一体となっていて、それを紐解くというのはすごく難しい。

加藤シゲアキが語る「報道」。自身の最新小説を「問題作」と呼ぶ理由(小暮 聡子) | FRaU

 

「自分が正しくないかもしれない」という視点は常に必要である。巷には正直、絶対間違っているものがたくさんあるが、ではそれらの否定の仕方として、自分は間違っていないか、そのセルフチェックを怠ると少しずつ間違ってくる可能性がある。特に、煽られて冷静さを欠いたときが危険である。だから私は不条理な目に負の感情を持ったとき、考え方を見直すために何度も小説現代を読んでいる。

 

もし『なれのはて』を低俗なやりかたで扱ったり、著者に「自分の立場を棚に上げて」という理由で非難したりすることがあれば、それこそ見事に皮肉で滑稽そのものであるのだが、それもまた失礼な話だなと思う。比較したり対峙するものとは言えない。両者は次元の違う話で、これは作品をいたずらに汚すことになりかねない。

自分自身も、「彼ら」と同じ所に落ちないよう、なんとか毅然としていたい。