アイドルが示す「アイドル」の定義 ー増田貴久ソロ曲「Thunder」考察ー 参考:加藤シゲアキ著書『ピンクとグレー』

「雷」が「神鳴り」だとしたら?神格化された人間の魂の叫びだとしたら。

 

 

増田貴久さんのソロ曲の中で、「Thunder」の演出は異色であったと思う。円盤ではモノクロの技法を採用し、本人しか映さない。彼しかいない世界の彼の孤独の叫び。そんな印象をうけた。この曲はアイドルが「アイドル」を示した作品なのではないか。

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外野の者に理解できない世界を、少しでも理解しようとし始めるのがヲタクの性か。どうして敢えてのモノクロなのか、歌詞と共に考えをめぐらせ個人的も甚だしい考察を書き留めてみたので、お付き合いください。(^^) ※これは個人の意見です。そして他担目線の考察です。

 

モノクロ、色、アイドル・・・ふと、連想されたものがあった。色による芸能人の葛藤、孤独の表現。ある。文章化された最たる資料がある・・・!しかもとても近くに。芸能界に生きる著者が、自らの思考を2人の人物に分け、葛藤、悲壮、人格の変貌を色にのせて綴った唯一無二の作品が、なんと手元にあるではないか・・・。

 

加藤シゲアキ:『ピンクとグレー』

 

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NEWS 加藤シゲアキ著作、ピンクとグレー

甘美な芸能界に麻薬のように囚われた人間の哀しさや慄然とするほどの享楽をここまで描いて"しまった"作品は、少なくとも国内ではほかに並列するものがないと思っている。何者かになるために、著者が人生を懸けた渾身の処女作である。

 

 

本作を読むと主要な2人の人物が「ピンク」と「グレー」であることは想像に難くない。色が本作の表現において強い効果を持っている。

 

「その物質が嫌って弾かれた色が私たちの目に映っているのよ。」

「クラスにいたあのアルビノのメダカはね、嫌いな色が映る自分の姿を見られたくなかったのよ。だから色素を捨てたの。でもね、私たちにメダカは見えていたでしょ。色素を捨てても透明にはならない。だから、メダカは全ての色を吸収することにしたの」(『ピンクとグレー』p118)

アイドルは本来的に「物語」を背負う。ファンは彼らの幸せを願いながら、自分たちのイメージする彼らであることを望む。自由に生きて欲しいと言いつつ、それは結局自分の理想の“自由”なのだ。

 

やらないなんてないから

この世界に魅せられた人間は成し遂げない訳にはいかなくなる。

木蓮吾のファンは彼の幸せを願いながら、自分たちのイメージする白木蓮吾であることを望んだ。ごっち(赤)は、芸能界(白)の白木蓮吾(ピンク)という色を受け入れることができなかった。

しかし甘美で絢爛で危険な世界に魅せられた人間は、成し遂げない訳にはいかなくなるのだ。彼は全ての色を吸収しようとした。ファンの理想に応えすぎた。ファンの理想の白木蓮吾は初めこそ彼の鎧になったが、雄が雌に取り込まれてその体の一部として溶け込んでしまうチョウチンアンコウの交尾のように、次第に「ごっち」は死に、白木蓮吾のみが残った。そして「りばちゃんは有名になるべきだ」と考えていた白木は、自分の死をもってりばちゃんを有名にさせる、という新たな「物語」を画策する。

りばちゃん(黒)は、芸能界の河鳥大(グレー)と白木蓮吾(ピンク)を混ぜ合わせることで、河鳥大という「物語」を伴って彼の中で「ごっち」を生きさせようとした。

僕に内在する二色は混ざらずに分離したままそれぞれを汚し合い、それら自身を擁護する。それでも僕は強制的に混ぜることでしか、次の新たな記憶を留保する方法を持っていない。(『ピンクとグレー』p274)

りばちゃんは白木蓮吾の力を借りて芸能界を生きた。次第に白木蓮吾の人格に飲まれていった。(飲まれることを望んだ。)そして「りばちゃん」が死に、白木蓮吾と同じ人格の河鳥大のみが残った。白木蓮吾は河鳥大の手で最期を迎える。

絶望的に素晴らしいこの世界の真ん中に僕は君と共にある。

 この結末をもって、白木の理想の物語は完成した。

 

 これを、アイドル当事者の加藤成亮が書いた。この甘美で、絢爛で、絶望的に素晴らしい世界のど真ん中で著者も生きているのだ。

色で象徴されているのは「名前」だ。同じ人物でも全く違う名前だからこそ全く違う人格が生まれているようだ。

しかし、筆者は求められるがままにアイドルをやることをよしとしなかった、できなかった人間である。白木や河鳥とは違う。アンチテーゼ的に、自らのアイドルとしての存在意義を刻もうとしているのではないか。何かに抗い、手に入れようとしていた。

 

そして自ら生きるためのアイデンティティを手に入れたのだろう。自分を歪ませる外側の自分ではなく、自分の生きる場所として、その色を手に入れた。

 

加藤シゲアキ」である。

 

読みは本名と同じ。ほとんど本人そのまま。でも本人とはきっと少しだけ違う、芸能界でのアイデンティティになった。白木蓮吾や河鳥大とは違い、「加藤シゲアキ」は加藤成亮と生き続けることができた。

 

 

増田貴久:Thunder

 増田貴久ソロ曲「Thunder」はモノクロ映像で映像作品として残されている。NEWSのライブDVDは、「ライブの様子を映した映像集」ではない。DVD単体でも映像作品として意味を持ち伝わるように設計されている。(そのため発売までに期間を要する。)

 Thunderは、増田貴久の孤独の叫びに感じる。なぜThunderなんだろうか。雷は「神鳴り」と書かせることもある。朝井リョウさんはアイドルを外界からやってきた「宇宙人」のような存在と表現していたけれど、増田さんがアイドルを "人々にあがめられる立場であるカリスマ的存在"

即ち、神に例えていたとしたら?

人には理解されない、時には都合良くあがめられ都合良く語られる神の、いや、そのように神格化された人間の孤高の叫びだとしたら・・・?

 

 

" Live in someone's dream pretending to be someone real?

" No! My life is MY LIFE!!! 見くびるな 自分で支配するんだ

“ 誰かのふりをして誰かの夢の中で生きてるの?”

違う!これは俺の人生だ。

 

"Hurting under smiles and loosing identity?"
No…哀れむな いちいち フラついてられないんだ

“ 笑顔の下で傷ついて自分を失うの?”

哀れむな、いちいちフラついていられないんだ(アイドルは)

 

どしゃ降りの雨に

吹き荒れる風に 身をすくめて

oh・・・声を押し殺して

I cry too・・・

世間から何万という声がひとりの人間に浴びせられる。なんのつながりもない人間たちが束になって攻撃してくる。

それでもアイドルは表で声を上げない。声を押し殺して泣く。

アイドルだって泣く。

 

Still your star ? Charisma?
Still your hope? Hero? …yeah
So don't cover your ears? 塞がないで耳

 俺はまだあなたのスター?カリスマ?まだ希望?ヒーロー?

(カリスマという単語に、「神格化された」という印象を強く受ける)

 

いつの間にか消える

I'm your Thunder・・・

一時はファンになっても、いつの間にかその心の中で自分の存在は消える。

ファンにとってはどうせその瞬間だけの存在。

 

変わる雲行きに たじろがずに

いつか風向き変わり I'll be nobody

モノトーンに染まる 昔話にah・・・"no・・・no・・・Let me fade away"

世間の、ファンの心などすぐに移り変わる。どんなに応援してくれるといっても、どうせいつかは忘れ去られる。

 

聞こえるか?聞こえるか?
バイアス越しに 何が見えるの?
その情報 誰が流してるの?
破れる傘で 何を凌ぐの?
当たり前のように 雨は上がるの?

自分ではない自分を決めつけられ

事実無根の情報で攻撃される。一人の人間が。

たった一人の人間なのに、ズタズタでも何万という声に耐えなければならないの?それがアイドル?

その嘘、中傷、憎悪の雨が上がる日は来るの?

 

 

それがアイドルなの?

 

心のせいで自死する唯一の生物が人間なのに、平気で集団攻撃する状況にはマジでゾッとする。それでいて加害者はすぐに忘れる。

 


よってたかって叩かれるのがアイドル?逆に自分とは違う姿で一時だけ神格化されて・・・そしていつか忘れられる。そういうもの全部「黙って」耐えるのが「アイドル」?

あまりに絶望的ではないか。

そうだ、「絶望的に素晴らしい」世界。人間としての葛藤や解離を凌駕するほどの抜け出せない美しさがその世界にはあるらしい。絶望的世界で、自己を持って生きることは難しいんだろう。人格を変えられれば、きっと楽なのかも知れない。でも、麻薬的なその世界に求愛するために魂を殺し物語を飲み込んで神になろうとした人々は、結局死んでしまった。

増田貴久は、とてつもなく強いかもしれない。

自らの力で自問し自分の居場所として手に入れた「加藤シゲアキ」とも、また異なるパターンだと思う。アイドル像に飲まれたわけではないし、自分で創ったわけでも無い。

歌詞を見る限り、周りが求める姿を演じることもあるようだ。ただ、「りばちゃん」や「ごっち」と違うのは、孤独ながら自分自身の意識で演じている「それ」をしっかり認識し、その隔たりも分かっていることだ。周りが色づけたわけではない本人が、その絶望的なはずの世界に立っている。

なぜだろう。色々考えて、そして2020年11月24日 Eテレ「シュガー&シュガー」の言葉を聞いてなんとなく分かった気がする。

重要なのが、増田さん自身が「アイドルのイメージ」を好いている嫌っている云々という話ではなく、自分の生き方をアイドルの定義とし、アイドルに誇りを持っていること。

「僕が、僕で、ジャニーズっす」みたいなのがアイドルだと俺は思ってますけどね。・・・「俺」。 アイドルっていう括りで「皆アイドルでしょ」って言われるのは俺はちょっと「何わかってんの」みたいな感じになる。俺はアイドルですよ。僕はアイドル、増田貴久はアイドルですけど、「君も君もアイドルでしょ」っていう中に入れられたら、「え、お前アイドルの何わかってんの」って。アイドルっていう言葉を下に見てるっていうか、それだったら俺はちょっと「は?」ってなりますけど、でも「俺は俺で、自分はアイドルだ」みたいな。 生き方っていうか、プライベートから増田貴久100%アイドルかはわかんないですけど、少なくともメディアに出る増田貴久の100%は“アイドル”として生きてますけどね。そういう風に生きていたい。(2020年11月24日 Eテレ「シュガー&シュガー」)

 

すなわち"増田貴久の生き方" の呼び名が "アイドル" なのであって、アイドルの中のひとりではないし、「増田貴久」は、人が求めた生き方をする虚構でもない。

周りが勝手に色づけた(カラーの)「アイドル(便宜上の)」は本人とは関係ない。そして、世間的になぜか矮小化されている「アイドル(便宜上の)」が自分の「アイドル(生き方)」だと勝手に思われることに憤っている。理解され難い憤りを叫んでいる。

なんとか雨を凌いでいる。俺の声を聞けよと。

 

だから、外側の理想との両立も傾倒もする必要が無い、というのが成立する。何万もの声を浴びせられ、いつか忘れられる「アイドル(便宜上の)」に対して「本人」があるのではなく、1人の人間「増田貴久」の生き方を”アイドル”と呼ぶのだ。

 

 

 

 

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